私は、ハル。この春から、都会の大学に進学するため、生まれ育った小さな町を離れ、一人暮らしを始めたばかりだ。慣れない環境と、見知らぬ人々に囲まれる毎日に、正直なところ少し戸惑いを感じていた。実家を出る前は、新しい生活への期待に胸を膨らませていたけれど、いざ来てみると、どこか心細さがつきまとう。
特に、隣の部屋に住む男性が気になっていた。彼はいつも無愛想で、挨拶をしても目を合わせようとしない。引っ越しの挨拶に行った時も、ドアの隙間から顔を少し覗かせただけで、すぐに閉められてしまった。彼の部屋の前に置かれた、少し元気をなくしたチューリップの鉢植えを見るたび、彼の心の状態を想像しては、胸が締め付けられるような気持ちになっていた。彼は、この都会の喧騒の中で、何か心に深い孤独を抱えているのかもしれない。
そんなある日、大学の課題で地域のボランティア活動に参加することになった。配属されたのは、地元の小さな公園の清掃活動だ。集合場所に到着すると、すでに何人かの学生が作業を始めていた。その中に、見慣れた顔を見つけた。隣の部屋の彼だ。彼の名前は、カズキといった。
カズキは、黙々とゴミを拾い、落ち葉を集めていた。彼の普段の無愛想な態度からは想像できないほど、真剣な眼差しで作業に取り組んでいる。私は彼に気づかれないよう、少し離れた場所で作業を始めた。
その日の午後、急な雨が降り出した。皆が慌てて屋根のある場所に避難する中、私はうっかり傘を忘れてきてしまい、立ち尽くしてしまった。すると、突然、頭上に傘が差し出された。顔を上げると、そこに立っていたのはカズキだった。
「これ、使えよ」
彼はぶっきらぼうにそう言って、私に傘を差し出した。驚きと同時に、彼の行動に胸が温かくなった。いつも無愛想で、まるで心に壁を作っているかのような彼が、私に傘を差し出してくれたのだ。私は戸惑いながらも、彼の差し出した傘を受け取った。
「ありがとう…」
蚊の鳴くような声でそう言うと、彼は何も言わずに、また黙々と作業に戻っていった。彼の優しさに触れて、私は彼のことをもっと知りたいと思った。彼の心の奥に、どんな感情が隠されているのだろう。彼は、この都会で、何かを諦めてしまったのだろうか。
次の日、私はカズキにお礼を言おうと、彼の部屋のドアをノックした。しかし、返事はない。諦めて帰ろうとしたその時、ドアがゆっくりと開いた。カズキが、憔悴しきった顔でそこに立っていた。彼の顔色は青白く、目元には濃いクマができていた。
「大丈夫…?」
思わず声をかけると、彼は力なく首を振った。
「体調が、悪いの?」
私が尋ねると、彼は小さな声で「ああ、ちょっと…」と答えた。彼の様子に、私は胸が締め付けられる思いだった。何か、私にできることはないだろうか。
私はすぐに部屋に戻り、持っていたレトルトのおかゆと、買い置きしてあったスポーツドリンク、そして、小さな花瓶に活けた真っ赤なチューリップと黄色のチューリップを持って、再び彼の部屋のドアをノックした。
「これ、よかったら…」
私がそう言って差し出すと、彼は驚いたように私を見た。
「何だ、これ…」
「おかゆと、ドリンク。それから…チューリップ。赤は『愛の告白』で、黄色は『正直な愛』っていう花言葉なんだよ。でも、チューリップ全体の花言葉は、『博愛』とか『思いやり』なんだって。カズキくん、昨日、私に傘を貸してくれたでしょ? そのお礼と、少しでも元気になってほしいと思って」
私は、精一杯の勇気を振り絞ってそう言った。彼の表情が、少しだけ和らいだように見えた。彼はゆっくりと手を伸ばし、私の差し出したものを受け取った。
「…ありがとう」
彼の口から、初めて心からの「ありがとう」という言葉を聞いた気がした。私は、それだけで胸がいっぱいになった。
それから数日後、カズキはすっかり元気を取り戻したようだった。彼の部屋の前にあったチューリップの鉢植えは、以前よりも生き生きとして見えた。そして、彼の部屋の窓辺には、私が渡したチューリップが飾られていた。それを見た時、私は本当に嬉しかった。

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